続・毒母の大発狂〜私が死のうと思った理由〜
こんにちは。
marriveまりぶです。
毒母から離れて約5年。
今となっては休日でさえもほとんど連絡は来なくなりました。
なんて、気楽なんでしょう。
以前は毎日のように連絡が来て、すぐ返さないと立て続けに数十件もの長文メール、長文LINEが来ていました。
思い出すと恐ろしい限りです。
さてさて、そんな毒母の大発狂について、前回は、結婚しないと発言したことに対し怒り狂った様子をお伝えしました。
母にとって、結婚して子供を育てるというのとは、親孝行、、すなわち祖母との関係が大きく関係しているのです。
そして、これが2度目の大発狂にも関係しています。
2度目の最大の発狂は、、、私が何かしたんでしょうか、、
とりあえず物凄く怒られていました。その経緯はもう辛すぎて忘れてました。
とにかく、ものすごい勢いで怒鳴られ、ひっぱたかれていました。
次に母の手があがった瞬間、私は嗚咽し、涙でぐちゃぐちゃな顔で、初めて母に言ったのです。
「何で叩くの、、、」
すると、忘れもしない、恐ろしい言葉とともに、これまでで一番痛くて苦しい(もう表現が見つかりません)平手打ちが返ってきました。
「こっちもそうやって育てられたんだよ💢💢💢💢💢」
(・・・あぁ、、、そういうことか・・・もう無理だ・・・この人には何言ってももう無理だ・・・)
私も全てを悟ったかのように、自ら顔を差し出し、叩いてくださいと言わんばかりに、平手打ちを受けました。
以前にも、母が母子家庭で育ったことなどは聞いてはいました。
働きに出る祖母に代わって小学生の時から家事をやってきたこと。それでも高校受験に失敗し、お金がないのに私立に行かないと行けなくなって祖母に悪いことをしたと今でも自責の念でいっぱいだということ。
それ以降は、祖母を二度と落胆させないようにと自分のやりたいことを全て我慢し、良い成績で高校を卒業し、銀行に勤めたこと。
苦労してきたから、子どもには同じ思いをさせたくない
いつもそう言っていました。
でも、それを言われた瞬間、
この恐ろしい闇、柵からは逃れられない、、、
死のう。
そう思いました。
私が、この手で、この家系の柵を終わりにすると。
このままだと、いつか私も同じことをしてしまう。
恐ろしい
恐ろしい
そうなる前に、自らの手で、この恐ろしい血の繋がりを断とう。
それは、私にしか出来ない。
そこから、死ぬことを考えるようになりました。
友人や恋人とは距離を置くようになりました。
そこから毎日、暗闇の中を彷徨っている心地でした。
しかし、私は今、生きています。
自分のやりたいことをやっています。
死ななくてよかったと思っています。
似たような境遇にいらっしゃる方、この柵のために自分を犠牲にすることなど決してしてはいけません。
自分の人生です。
悩んでいらっしゃる方、
まずは、吐き出してみてください。
味方はたくさんいます。
それが独立への第一歩だと思います。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。^^
毒母の大発狂と、独立への第一歩のすすめ。
おはようございます。
marriveまりぶです。
ツイッターでこのブログについて多くの感想をいただき、ありがとうございます。
私は、これまで苦しいことも自分の中に閉じ込め、自分の考えられる範囲で考えて処理してきた(つもりでしたが処理しきれていない、実際は出来ていないことが多かった)ので、視野が狭く、自分の価値観でしか物事を捉えることが出来ませんでした。
ですので、
「これはこうだよ。」とか、「こうも考えられるよ。」などと言っていただけると、
「なるほど!」と視野も広がり、また違う自分に出会えた気持ちになれます。
私は、このブログを読んでいただいた方全員に「あー、分かる分かる!」と思っていただきたくて書いているわけではありませんので、
様々な感想をもっていただけるとありがたいです^^
前にも書かせていただきましたが、人は皆、全く同じ境遇ではないですし、似たような境遇であっても、受け止め方や捉え方も違うので、「そういう捉え方もあるんだな。」、「そんな風に考えているのか。」などと思っていただけるだけで、嬉しいです。
そして、その感想を私に伝えていただけるなら、もっともっと嬉しいです。^^
ちなみに、私は27歳で毒母から独立しましたが、記憶の中では、2、3度、最大の恐怖、毒母が悍ましいくらい大発狂をした時があります。
1度目は、20歳すぎた頃でしょうか。
何かテレビを観ていた時でしょうか。
「私は、結婚する気はないな。」とボソっと言った瞬間、
「いつかは、みんな結婚すんだよぉ💢💢💢」
と、突然猛烈にキレ出した時です。
(え?、、、なぜ、、、?)
今でも忘れられません。
当時は母親に反抗することは許されず(というより反抗出来なかった自分がいました)、自分の意見も言えなかったので、キレられた直後すぐさま時の部屋に閉じこもりました。
叩かれなくて、良かったです。
当時付き合っている人はいましたが、母親とのことを巻き込みたくなかったので、別れました。(これは当時の自分の言い訳です。)
端から結婚願望もありませんでしたが、それを言われた瞬間、
死んでも結婚なんかするか
お前の言いなりなんかならない
思い通りにならないこともあるんだと証明してやる!
絶対結婚しない!
と固く決意しました。
と同時に、他人と深く関わってみたいという1つのシャッターを閉めました。
ですが、その後、"自分の人生は自分のもの"と考えて良いんだと分かった瞬間、考えは変わりました。
無理に結婚することなどありませんが、もし、パートナーがいて、お互いその気持ちがあるならば、毒母を理由に別れる必要はこれっぽっちもありません。毒母への反抗心や意地で自分の人生や可能性を潰すのは本当にもったいないです。
私はまだ結婚はしていませんが、いずれそうなっても良いかなというパートナーはいます。
その人と付き合ったからそう考えられたのではなく、その前に、私が毒母から独立して、自分の好きなことや、将来などを考えられるようになったからです。
「いやいや、そう簡単に考えは変えられないよ。」と思われる方たくさんいらっしゃると思います。その通りです。私もずっと変えられませんでした。
ですが、これだけは言えます。
人生は毒親・毒母のものでもなく、毒親・毒母への反抗心や意地で生きるものでもなく、
自分自身のものです!!!!
「そんな簡単に言わないでくれ、うちの環境ではそう簡単に独立出来ない、逃げられない、そんな簡単に切り離して考えられない、、。」
たくさんいらっしゃると思います。
ですが、とにかく、自分のものである人生(楽しさ、やりがい、すべての時間)を毒親・毒母のために捧げるようなことはしないでほしいです。
時間もかかります。何より、自分と向き合う力が要ります。でも、毒母が嫌で自分の人生を絶つとか、諦めるとか、それは本当にもったいないです。
私は、あの時母がなぜあんなにも怒り狂っていたのか、今なら理解出来ます。
そう、私のように母との関係が恐ろしく強固な場合は、母親のことも理解してあげることが必要なのです。
そのためには、やはり、自分だけの価値観ではなかなか打破できません。
私の場合は、カウンセリングに通い、幼い頃からの人生を遡りました。
母の言動、自分の行動、自分の気持ち、母の気持ち、一つずつ、一つずつ細かいミシン目をほどいていくかのように。
カウンセラーの先生に自分の気持ち、行動を肯定してもらうことで、私は
"生まれてきて良かったんだ"
"それであっていたんだ"
"これで良かったんだ "
と、存在を肯定してもらえた気持ちになり、
他者のことも理解してあげよう、理解したい。
と思うようになりました。
それで、母の当時の言葉も理解することが出来ました。
ですので、毒母の対処法として、そもそも、反抗が出来たり、家を出ても親御さんがが良い距離感で見守っていてくれたりする場合は、悩みはあっても、「死にたい。。」とまでは苦しんでないと思います。
おそらく、苦しんでおられる方は、一緒に住んでいて、苦しいけれど家を出られない理由がある、圧力がある、一人暮らししていても干渉してくる、仕事やプライベートにも口を出してくる、、、などなど、、私でも経験していないこともたくさんあると思います。
そのような方、絶対に諦めないでほしいです。家を出られなくとも、干渉が辛くとも、自分の人生を諦めないでほしいです。
すぐには独立出来ないかもしれません、でも、家を出られなくとも、心は毒親・毒母から独立出来る可能性があります。
ただし、それは何もしなかったら変わりません。私の場合は、カウンセリングに通いました。先生に救われました。
今はSNSも盛んです。ツイッターなどで同じ苦しみや悩みを抱えた方とやりとりも出来ます。これは本当にすごいことです。
とにかく、自分の苦しさややるせなさ、怒りや哀しみを吐き出してください。
毒母という言葉が世に出ています。同じ苦しみや悩みを抱えている方は絶対にいます。
境遇は違えど私はその苦しみを抱えていた人間です。
味方は必ずいます。
自分の人生を大切にするために、まずは、ぼやく、愚痴を言う、SOSをする、自ら発信してみてください。
それが毒母からの独立の第一歩だと考えます。
長くなってしまいました、、、
本当は、あと2つの大発狂についても書きたかったのですが、ボリュームの関係で次回にします。
今日も読んでくださった方、ありがとうございました^^
私の毒母はこんな人。
こんばんは!
昨日からはてなブログを始めました、marriveまりぶと申します。ʕ•ᴥ•ʔ
この度は、ブログを読んでいただき、本当にありがとうございます。
物事は何事も早いに越したことはありません!
早速ですが、今日からは私の経験してきたことを綴っていきたいと思います。
私の母はこんな人
私の母は、いわゆる、毒母というもの分類されると思います。
ですが、前回書かせていただいた通り、私がこの言葉を知ったのはごくごく最近のことです。
それまで、「うちの母は、頭がおかしい。」「恐ろしい。」と思っていながら、当時はその答え合わせをする場所もなく、というより、答え合わせをする出来る場所を知らず、もしくは答え合わせをすることはしてはならない、と思い、ずっとずっと、一人で自己完結し(たつもりで生き)てきました。
携帯電話が普及し、インターネットが使えても、決して、母娘関係、などで検索したことがありませんでした。
後に、自立する目前、私はとある出来事をきっかけにぶっ壊れるのですが(←これは後ほど、自立のきっかけ編で!)
当時、苦しすぎて思わずパソコンで
"母娘"と打ったら、
"母娘 関係"とすぐに出てきて、
その時初めて、
"同じように悩んだり苦しんだりしている人がいたのか、、、。"
と気付き、
もっと早く検索をしてみれば良かった、、、
同じ苦しみを抱えている人たちと分かり合えたら、気が楽になれただろうな。
と後悔したことを覚えています。
今はネットやSNSで毒親と検索すれば、すぐにそれについて投稿した人の記事やつぶやきが出て来るので、SNSには賛否両論ありますが、私は良いツールの一つであると思います。
さて、母との関係ですが、一番苦しかったのは、高校卒業後から大学在学中あたりですかね、いや、その前も苦しかったですがね笑笑、
当時、私は母のことを、
「過保護過干渉異常支配」
と表現していました。
・夜遅いといつもメールや電話が頻繁にくる
・言った時間に帰らないとメールや電話で催促がくる
・帰りが遅いと家の前に立っている時もある
・たまに恐ろしく長文の手紙を書いてくる
・彼氏が出来たら執拗に干渉してくる
・帰りが遅くなり、理由を図書館に行っていたなどと嘘をつく(本当は彼氏と会っていた)と、図書館にわざわざ電話をして確認をし、もう終わってるじゃないの、本当はどこにいるのと物凄い勢いで電話をかけてくる
・テストの点数が悪いと携帯電話を没収し、電池を切って渡したはずだか、電源が入れられて返されたことがあった
・ボランティア活動に参加した時は、本当にそこに参加しているかを確認するために、その責任者の携帯電話に電話をしてきた
・初めて一人暮らしをした時は、合鍵は親に一つ渡すのが普通だと言い、勝手に入っては部屋の様子を窺ったり通帳を探して見たりし、お金の使い方まで事細かく言ってきた
などなど・・・・
ざっと、ありすぎる中から厳選しました。
(、、、書いているだけで、当時を思い出し、吐き気がしてきたので、ここらへんで止めておきます笑)
解決したはずなのに、やはり当時の苦しい記憶は閉じ込めたものもたくさんあるので、掘り出すのはパワーが要りますね。_| ̄|○
上記の行動から、心配と称する過保護、過干渉、異常支配であると私は考えます。
いわゆる「子供を支配する親」などのタイプに分類されるのでしょうか。
まあ、それ以外にも、
・テストの点数が悪いと怒られる
・悪い点数が続くとひっぱたかれる
・あまりに恐ろしいので今度は隠すことにし、それがバレるとひっぱたかれた後、家の外に出され、玄関の鍵を閉められる
・ピアノが上手く弾けないとひっぱたかれる
・ピアノの指遣いを間違え、椅子から蹴落とされたこともある (母はピアノなど全く弾けない笑)
・習い事の後、すぐに帰らないと鍵が閉まっていて、30分くらい、もうやりません、もうやりません、許してください、とお願いしないと開けてもらえない
などなど・・・
、、、また、吐きそうになってきてしまったので、例はここらへんにします。
上記の例からは、私の母には、支配、抑圧、束縛などの要素もあるかと考えます。
過保護、過干渉、支配、抑圧、束縛はある一方で、注意したいのは、育児放棄や虐待ではないという点です。
"生まれなければ良かった"などと言われたことはありません。
ご飯を与えられなかったこともありません。
幸い、私には、毎日着る服も、食べるご飯も、住む家もありました。
「なんだよ、恵まれているじゃないか。それで毒親、毒母といって、恨むのか。」
そう思う方もいると思います。
ですが、前回も書きましたが、人は皆生まれた環境も、その後の環境で形成された性格も違います。物の捉え方も生き方も。
私の場合、自分でも恐ろしいのですが、
着る服も、ご飯も、家もあるから、苦しかった
というのがあるです。
なぜかと言うと、
そのことにより、
私は上記のようなことがあっても、常に
「お母さんは、私を生んでくれたんだ」
「お母さんは私のために怒っているんだ」
「私には、着る服も、食べるご飯も、寝る家もある」
↓
結果
「お母さんに感謝しなきゃ」
↓
「怒られないようにしなきゃ、怒られないようにしなきゃ、100点取らなきゃ、1位取らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、
怒らせてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい、、許してください、もうしません、もうしません、私は何でいつもこうなんだろう、いつも出来ない、うまくいかない、頑張ってるのにうまくいかない、、、」
こうして、私が形成されていきました。
私の母は、育児放棄はしません。
けれど、それは、私の母の場合は、
私がしてあげてるのよ、私のおかげでしょ、私の言うことを聞くのよ
という恐ろしい圧になります。
結果、私は恐ろしく圧倒的な支配下に置かれることになります。
この関係は、27年間続いていきます。
私は、いつ頃から母親を怖い存在、絶対服従の存在と認識していたのでしょうか。
おそらく小さい時からであると思います。
次回は幼少期、覚えている限りのエピソードを交えながら、毒母と私の関係を綴ってみたいと思います。
長い文を、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。o(`ω´ )o
はじめまして。
はてなブログはじめました。
毒母育ちのmarriveまりぶと申します。
私が毒親、毒母という言葉を耳にしたのは今年の冬です。
ドラマを観ていて、身震いがしました。
そんな言葉があったのか。と。
20年前にもしSNSが普及していてこの言葉が世間に出回っていたら、私はもう少し違う人生を歩めていたのだろうか。
そう思うことがあります。
けれど、私は生まれてから約27年の歳月をかけて、いわゆる"毒母"というものから離れ、自分という存在に気付くことが出来、今、自分の人生を思う存分歩もうとしているところです。
私は、いつかこれまでのことを何らかの形で伝えたい、そう思ってきました。
中学生の頃は、自分の部屋にあったパソコンのワードに、毎日自伝小説を書き溜めていて、自分が死ぬ前に見せてやろうか、遺書にしてやろうか。と考えていました。
毎日、逃れることを考えてきました。
けれど、逃れられない。
太く恐ろしい鎖のような柵が常にあったのです。
それくらい、母に対して恐怖と絶望、憎悪を抱いていました。
それくらい、母と一緒に暮らす生活は重たくて苦しい時間でした。
ここでは、自身が物心ついた時から母に言われてきたことやされてきたこと、自分がどうしていたかなど、様々な実体験をもとに、母から独立したきっかけ、その後の母への対処法などを綴っていきます。
そして、今現在も母親との関係にもがき苦しんでいる方に生きる勇気やパワーを与えたり、不安な気持ちやぐちゃぐちゃした気持ちを少しでも小さくしたり出来るお手伝いが出来たらと良いなと思いました。
人は皆違います。毒母にも色々なパターンがあり、性格も環境も違います。また、こちら側(子供側)の性格、環境も皆違いますので、全て共感していただけるとは思っておりません。
毒母から逃れ、自立をしたというひとりのノンフィクションとして読んでいただければ幸いです。
2018.09.04