毒母からの独立記〜毒母育ち毒母の対処法〜

毒母育ちです。数年前、自分自身が壊れたことにより毒母と自分自身というものを切り離して考えられるようになりました。長年の苦しさや葛藤、独立のきっかけやその後の対処法など書いていきたいと思います。

私の毒母はこんな人。

こんばんは!

昨日からはてなブログを始めました、marriveまりぶと申します。ʕ•ᴥ•ʔ

この度は、ブログを読んでいただき、本当にありがとうございます。

物事は何事も早いに越したことはありません!

 

 

早速ですが、今日からは私の経験してきたことを綴っていきたいと思います。

 

 

私の母はこんな人

私の母は、いわゆる、毒母というもの分類されると思います。

 

ですが、前回書かせていただいた通り、私がこの言葉を知ったのはごくごく最近のことです。

 

それまで、「うちの母は、頭がおかしい。」「恐ろしい。」と思っていながら、当時はその答え合わせをする場所もなく、というより、答え合わせをする出来る場所を知らず、もしくは答え合わせをすることはしてはならない、と思い、ずっとずっと、一人で自己完結し(たつもりで生き)てきました。

 

携帯電話が普及し、インターネットが使えても、決して、母娘関係、などで検索したことがありませんでした。 

 

後に、自立する目前、私はとある出来事をきっかけにぶっ壊れるのですが(←これは後ほど、自立のきっかけ編で!)

当時、苦しすぎて思わずパソコンで

"母娘"と打ったら、

"母娘 関係"とすぐに出てきて、

その時初めて、

"同じように悩んだり苦しんだりしている人がいたのか、、、。"

と気付き、

もっと早く検索をしてみれば良かった、、、

同じ苦しみを抱えている人たちと分かり合えたら、気が楽になれただろうな。

と後悔したことを覚えています。

 

今はネットやSNS毒親と検索すれば、すぐにそれについて投稿した人の記事やつぶやきが出て来るので、SNSには賛否両論ありますが、私は良いツールの一つであると思います。

 

 

さて、母との関係ですが、一番苦しかったのは、高校卒業後から大学在学中あたりですかね、いや、その前も苦しかったですがね笑笑、

当時、私は母のことを、

「過保護過干渉異常支配」

と表現していました。

 

・夜遅いといつもメールや電話が頻繁にくる

・言った時間に帰らないとメールや電話で催促がくる

・帰りが遅いと家の前に立っている時もある

・たまに恐ろしく長文の手紙を書いてくる

・彼氏が出来たら執拗に干渉してくる

・帰りが遅くなり、理由を図書館に行っていたなどと嘘をつく(本当は彼氏と会っていた)と、図書館にわざわざ電話をして確認をし、もう終わってるじゃないの、本当はどこにいるのと物凄い勢いで電話をかけてくる

・テストの点数が悪いと携帯電話を没収し、電池を切って渡したはずだか、電源が入れられて返されたことがあった

・ボランティア活動に参加した時は、本当にそこに参加しているかを確認するために、その責任者の携帯電話に電話をしてきた

・初めて一人暮らしをした時は、合鍵は親に一つ渡すのが普通だと言い、勝手に入っては部屋の様子を窺ったり通帳を探して見たりし、お金の使い方まで事細かく言ってきた

 

などなど・・・・

ざっと、ありすぎる中から厳選しました。

(、、、書いているだけで、当時を思い出し、吐き気がしてきたので、ここらへんで止めておきます笑)

 

解決したはずなのに、やはり当時の苦しい記憶は閉じ込めたものもたくさんあるので、掘り出すのはパワーが要りますね。_| ̄|○

 

上記の行動から、心配と称する過保護、過干渉、異常支配であると私は考えます。

いわゆる「子供を支配する親」などのタイプに分類されるのでしょうか。

 

まあ、それ以外にも、

・テストの点数が悪いと怒られる

・悪い点数が続くとひっぱたかれる

・あまりに恐ろしいので今度は隠すことにし、それがバレるとひっぱたかれた後、家の外に出され、玄関の鍵を閉められる

・ピアノが上手く弾けないとひっぱたかれる

・ピアノの指遣いを間違え、椅子から蹴落とされたこともある  (母はピアノなど全く弾けない笑)

・習い事の後、すぐに帰らないと鍵が閉まっていて、30分くらい、もうやりません、もうやりません、許してください、とお願いしないと開けてもらえない

 

などなど・・・

、、、また、吐きそうになってきてしまったので、例はここらへんにします。

 

上記の例からは、私の母には、支配、抑圧、束縛などの要素もあるかと考えます。

 

 

 

過保護、過干渉、支配、抑圧、束縛はある一方で、注意したいのは、育児放棄や虐待ではないという点です。

 

"生まれなければ良かった"などと言われたことはありません。

 

ご飯を与えられなかったこともありません。

 

幸い、私には、毎日着る服も、食べるご飯も、住む家もありました。

 

「なんだよ、恵まれているじゃないか。それで毒親、毒母といって、恨むのか。」

 

そう思う方もいると思います。

 

ですが、前回も書きましたが、人は皆生まれた環境も、その後の環境で形成された性格も違います。物の捉え方も生き方も。

 

私の場合、自分でも恐ろしいのですが、

着る服も、ご飯も、家もあるから、苦しかった

というのがあるです。

 

なぜかと言うと、

そのことにより、

私は上記のようなことがあっても、常に

「お母さんは、私を生んでくれたんだ」

「お母さんは私のために怒っているんだ」

「私には、着る服も、食べるご飯も、寝る家もある」

結果

お母さんに感謝しなきゃ

「怒られないようにしなきゃ、怒られないようにしなきゃ、100点取らなきゃ、1位取らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、

怒らせてしまった、ごめんなさい、ごめんなさい、、許してください、もうしません、もうしません、私は何でいつもこうなんだろう、いつも出来ない、うまくいかない、頑張ってるのにうまくいかない、、、」

 

こうして、私が形成されていきました。

 

私の母は、育児放棄はしません。

けれど、それは、私の母の場合は、

私がしてあげてるのよ、私のおかげでしょ、私の言うことを聞くのよ

という恐ろしい圧になります。

 

結果、私は恐ろしく圧倒的な支配下に置かれることになります。

 

 

この関係は、27年間続いていきます。

 

 

私は、いつ頃から母親を怖い存在、絶対服従の存在と認識していたのでしょうか。

 

おそらく小さい時からであると思います。

 

次回は幼少期、覚えている限りのエピソードを交えながら、毒母と私の関係を綴ってみたいと思います。

 

長い文を、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。o(`ω´ )o